2011年01月13日

パーソナルコンピュータ 好きだから勧めるってわけでもない



自分の実感が一番大事

 大昔の話です。

 知的障害特別支援学校にいた頃。

 ○○さん、こんにちは。
 kingstoneです。

 私自身は・・・周囲からはTEACCH絶対主義者と思われてるんだろうな。

 肢体不自由児にパソコンを使わせようとしていた時は「あいつはパソコンオタクだから」「あいつはパソコンが好きだから」と思われてたろうし・・そーゆーのってこっちが否定しても、相手は余計にそう思うし、まあほっとくしか無いんでしょうね。(オタクであることは否定しませんが、ちょっと違うオタクだと思う・・・)

 >が、私の地方の特別支援教育関係の方はみなさん一様に否定されます。
 >カードばかりや、オペラント的や、授業らしくない、やらされてる
 >みたいや・・・。

 あはは、あるある。
 これについては私は全部反論および注釈はできるなあ。

「カードばかり」
 そんなことは無い。実物を使うこともあれば、メモ帳を使うこともあれば、言葉を使うこともある。視覚支援を多く使うのは確か。

 オペラント・・・
 そもそもその批判をされた方がどれだけ応用行動分析のオペラントと言われるやり方をご存知なのか。最近の動向をご存知なのか。そこんとこがわからないと話にもならない・・

 授業らしくない・・・
 授業らしい授業がそもそも成立していたのか。そしてその授業を受けていた子どもはどうであり、卒業後どうなったのか・・・。目指すべき授業ってどんなものなのかなあ。

 やらされてる・・・まず「やらされて何が悪い」と開きなおることもできるような気が・・だって他のやり方の授業や生活だって「やらせる」ことをしていないかなあ。

 しかしそういう中で本当に本人の選択を大事にしていこう、ということを中に入れていくこともできるわけでね。例えばプリントをさせる時に「どっちのプリントをする?」とか遊びに行く時に「どっちの教室で遊ぶ?」とか私の場合は入れてますけど。

 >しくない、やらされてるみたや・・・。しかし、実際に学校で担当していた
 >子どもに少し構造化した形で取り組んで見ると、パニックしていたのに我に
 >返ったように表情が和らぎ落ち着いて過ごしてくれました。このときに何か
 >通じ合えたような気がしました

 批判するにせよ擁護するにせよ観念的にやる人っているじゃないですか。
 そういうのって議論するだけ時間の無駄という気がします。
 人の持ち時間って限られているのですから。

 そんな中でいちばん確かなのは○○さんご自身の実感だと思います。
 そこから出発するしか無い。人の言葉(例えば私の言葉)よりも、ご自分の実感から考えていくのが一番ですよ。(ニコ)

 それから、実は実践者というのは「絶対主義」にはなり得ないと思うのですね。とにかく現実というやつはいろんなことを起こしてくれる。その時に「こうやりゃ絶対うまくいく」っていうことはあんましないような。

 で、いつもあれこれ試行錯誤しか無い。(で、こう書くとまたTEACCHにかぶれてるから、と思われるかもしれないけど、TEACCHってその試行錯誤を含みこんでるような気がします)

 >それと、学校現場では否定される人が多いのに、お母さん方は自らも学習会
 >をして特別支援学校教員以上に良く知っておられて、これではお母さんから質問
 >されたときに特別支援学級の先生はおろか特別支援学校の先生もひとたまりも
 >ないわ、という状況です。

 あはは。
 学校って・・・保護者からの外圧が一番きくかな・・・本人や教師のニーズではなく・・・

 私、中学生時代、丸刈りに反対を表明してたし、周囲の友人に聞いても多くの人たちが生徒集会だとかなんやかんやで反対の意思を表明していたのに学校は変わりませんでした。

 後で、ある保護者が裁判を起こしたら、確かそれだけ(判決とかじゃなく)で丸刈りが無くなった。

 何か苦いですけど。

posted by kingstone at 21:20| Comment(0) | 障害支援・社会参加 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

シェアウェア―もうひとつの経済システム



 大昔の話です。

 知的障害特別支援学校にいた頃。

「シェアウェア―もうひとつの経済システム」NTT出版 金子郁容監修 宮垣元・佐々木裕一著
を読みました。いろいろ触発されるところがありました。

 シェアウェアやフリーウェアの作者へのインタビューを集めた本です。
 みなさん異口同音に「このソフトは私一人で作ったものではない」「ユーザーからの要望があってこそできたものだ」というようなことを述べられています。

 ちょっと長いけれど引用します。
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 もちろん、シェアウェアがディジタル・ネットワークをインフラとしていることは事実だ。その意味では、オンライン上でのソフトウェアが「つながっている」感覚を生み出すのは必然ともいえる。しかし、ここで注意すべきことは、原動力となっているのは明らかに「つながっている状態」ではなく、「つながっている感覚」であるということだ。ここでいう「つながり」とは、物理的な接続状態以上の「何か」であるが、そのことこそが重要なのである。

 では、どうしたらそうした感覚を得られるようになるのだろうか。いい換えれば、どうしたらユーザーが自発的に「付句」をするようになるのだろうか。ヒントは江村氏の「早い段階でソフトウェアを公開してしまえば、ユーザーからのフィードバックがある」という経験に隠されている。

 早い段階で公開するということは、ソフトウェアの完成度が低い状態で公開するということだ。そこには、おかしなところや不完全なところがぎっしり詰まっている。企業の発想からいえば、そんな状態で製品を世に出すことはありえないだろう。不完全であるがゆえにユーザーからクレームがつきかねないし、第一、事前の評判を落とすリスクをしょいこむことになるからだ。

 ところが、シェアウェアはそれをあえてやろうとする。ましてや、作者には企業や上司といった後ろ盾やいい訳がないから、ある意味では好んでさらし者になるようなものだ。しかし、それは愚かなことでも損なことでもない。理由はいたって簡単だ。どんなに穴がないように気をつけても、どんなにいい訳を考えても、完全であることはありえないからだ。どうせそうなのであれば、そんの取り繕いをせず、素直にそれをさらしてしまえばいいとシェアウェアの作者は考える。つまり、シェアウェアを作るということは、自分自身をひ弱い立場に立たせることを選択するということでもある。

 このように、ボランタリーな行為はさまざまな賞賛と同時にさまざまな攻撃に身をさらすことにもなる。しかし、作者が自分を弱い立場におくからこそ、他のユーザーからの指摘や意見や要望が生まれると考えてみたらどうか。シェアウェアの作者がソフトを公開すれば、たくさんのユーザーから感謝の言葉をもらうかわりに、「こんなことはできますか」「こうしてほしい」「こんな不具合がでました」というような意見への対応を迫られる。だが、こうした「弱さ」や「傷つきやすさ」こそがシェアウェアのダイナミズムの源なのではないか。

 ボランティアを研究する金子郁容は、この弱さを「バルネラビリティ」と呼び、自らを「バルネラブル」にすることが次の「つながり」を生むのだと説いている。(「ボランティア」岩波書店)バルネラブルであるということは、弱さ、攻撃されやすさ、傷つきやすさであるとともに、相手から力をもらうための<窓>を開ける秘密の鍵でもあるというのだ。
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 例えば今までの学校文化はひょっとしてパッケージソフトを作ろうとするようなものではなかったか。しかもかなり破綻し、ユーザーのニーズから離れた・・・

 個別教育計画は、それをシェアウェア化(オンラインソフトウェア化)しようとする試み??

 またフォーラムの会議室への発言やMLへの発言というのもボランタリーな行為であるし、同じような側面があるのじゃないかな。マチートさんはご自分の「問題行動の対処法マニュアル」をフリーウェア宣言してはりましたし、最近で言えばダダ父通信もまさにそういうものとして流通しようとしていますよね。

 この本にはシェアウェアとお金についての考察もされています。
 これは有償ボランティアにつながるのじゃないか、という視点ですね。

 それこそ卒業後の場やグループホームをそういうものとして作っていくことができないかなあ、というのが今の私の夢想です。

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大阪の知的障害児施設(月の輪学院)虐待事件続報2

大阪の知的障害児施設虐待事件続報
大阪の知的障害児施設(月の輪学院)虐待事件続報
虐待を普通と思う時

 朝日新聞の記者さんが取材してはりますね。

ポエム

 朝日新聞の記者さん。
 底の浅い記事を書くことなく、いろいろ取材をして欲しい。

 しかし「こんなふうにもできるんだよ」ということは勉強(取材)した上で書いてくれたら嬉しいな。

 「虐待やむなし」「どうしたらいいかわかりません」じゃなくて。

追記
 アサヒコムのお問い合わせフォームに意見を書いて送ってみました。
 朝日新聞の記者さんに届くだろうか。

 何か

シェアウェア―もうひとつの経済システム

で言うところの「バルネラブルであるということは、弱さ、攻撃されやすさ、傷つきやすさ」になる行為ですね。
posted by kingstone at 19:32| Comment(0) | 教養・ビジネス・組織論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月12日

焼香の香炉 お葬式や儀式への参加



 自閉症の人にとって、お葬式はなかなか参加の難しい儀式です。

・死というものがわかりにくい。
・死者を悼む(周囲の人のための、生きているもののための)儀式ということがわかりにくい。
・その場の音や香りが嫌な場合がある
・そうあるものじゃない(慣れない)

等の理由があると思います。

 漫画「光とともに」戸部けいこ著の第1巻第1話にも、光君が法事に行ってパニックになるシーンが描かれています。

 それでも見通しがつけられるスケジュールがあり、「焼香」「お棺に花を入れる」などの活動の見通しがあると幾分参加しやすいかもしれません。(神式だと榊を捧げる、か。キリスト教式だと何か活動はあるのかな?)また要求すれば途中で別の部屋で休憩できる、というような安心も必要ですね。そういうことがあれば逆に全部参加できたりするかもしれません。

 でも、まあ、本人に尋ねてみて、「行かない」と意思表示するなら行かないという決断もいるかもしれません。

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 ハルヤンネさんが「ふたつめの「月がまわってくる」」で、顧客のお子さんが葬儀に参加できた(できなくてもいいと思っていたけどできた)という報告を書いてはります。

お便り♪ありがと

 で、私がそのことをTwitterで書いたら、ハルヤンネさんが基本的なヒントをつぶやいて下さいました。以下に収録。

ハルヤンネ「葬儀については、もう、何十組もアドバイスしてきました。みなさんが、ご家庭なりのお別れをしてくださっています。次にマニュアルを、ツイートします。」

ハルヤンネ「「葬儀のときに」 http://amba.to/fmrgj0 葬儀のときに、用意したらいいものなどを、お知らせしています。沢山の方が、ご利用いただいているマニュアルです。」

ハルヤンネ「「葬儀の経験 00,09,23〜25」 http://amba.to/dP2hQQ これは、祖母の葬儀にでたときの様子。それから、父の葬儀にも参加しました。 そのときは、焼き場で「出直すときは、焼き場だよ」と言ったので、みんな、父は、どこかで出直したのだろうと、想いました。」

 某宗旨では、「亡くなる」ことを「出直す」と言います。たぶんその宗旨ではないだろう家庭に育ったお子さんが「出直す」と言いはったことに感動します。

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何が大切なの?

大昔の話です。

 知的障害特別支援学校にいた頃。

 みんなで一緒にいることがそんなに大切なのだろうか・・・

 例えば、
 ・コンサート会場で静かに座っている、
 ・お通夜やお葬式で静かに座っている、
 ・みんなでレストランに行った時に食べ終わっても静かに座っている、

 すべて素晴らしいスキルです。
 それができたらたぶんすごく世界も広がることだと思います。

 で、それを目指して集会で歩き回らずに座ることを教える??
 たくさんの人でわんわん音がする会場に「いやだ」という意思表示をしている人を座らせる??

 あるいは「楽しい集会でした」と言うが本当に子どもは楽しんでいたの??

 こーゆーことを考えるとかなりつらくなったりします。
 いや考えるとではなく、言葉に出してみるのですが、「社会に出たらそういうのも必要でしょ」
「これから社会に出たらもっともっと我慢しなければならいなことが増えるのだから」とか言われるわけで、だからつらくなるわけだな。

 本当かな?

 「前にならえ」で並ばないといけない作業所や施設ってたくさんあるんだろうか。あるいは会社。もちろん自衛隊や警察や消防署はそうかもしれないけど・・・いや警察だって内勤の人だったり、所内の掃除の人だったら「前にならえ」で並ぶ必要も無いだろうなあ。

 うーん、うーん。

posted by kingstone at 23:50| Comment(0) | 自閉症・発達障害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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