2011年01月06日

コンタクトレンズ メガネを取るお子さんへの対応



 他人のメガネを取る、という「問題行動」のあるお子さんへの対応。最初は私がコンタクトレンズをつける、という対応をしました。それでOKでしたけど、それなりにコストはかかります。後ろに他の対応も書きます。

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コンタクトをつけました

 知的障害特別支援学校にいた頃。

 先日眼科に行き、コンタクトを合わせました。
 今日、つけたりはずしたりの練習をし、購入しました。

 眼鏡を取るお子さんがいます。そのお子さんと腰を引くことなくつき合いたいと思って。

 もちろん「眼鏡を取らないように教えていかなくては」というご意見もあるのですが、「本人を変えるより環境を変える方が簡単」ですもんね。

 お金がかかるのが難点ですが、「2週間で使い捨て」でも、ならすと一日100円程度ですね。

 追記 今だと30円程度ですか。
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眼鏡を取ったら

 今日は初めて学校にコンタクトをしていきました。
 朝、はめるのに10分はかかったぞ(アセ)

 そのお子さんは、別に眼鏡のあるなしはどうでも良かったみたいです。
 で、こちらが緊張せずにそのお子さんのそばにいることができるので、すっげえ楽。だからそのお子さんと思いっきり遊べました。嬉しいなあ。
 
 で、そのお子さんの笑顔もたくさん見ることができました。

 A君は私が眼鏡をはずして手に持っていると「かけろ」というふうに眼鏡を取り上げかけさせます。だからA君が混乱しないかな、と思っていたのですが、初めから無かったら、どうでもいいみたいでした。ほっ。

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 後日、F君の家を家庭訪問している時、私はメガネをかけていて、F君は私のメガネを取りました。その瞬間、私は彼の両腕を強く掴み怖い顔で「いけません!」とどやしつけました。次の瞬間、普通の表情に戻して、またたんたんとお母さんと話を続けたつもりですが。

 でもその場にいたお母さんとお婆さんは、少しつらそうな顔をしてはりました。

 この後、ずっとF君は私のメガネを取りに来ることは無くなりました。

 ただし、後年、F君と会わなくなってすごく時間がたってから再会した時、きっちり取られました。
 その時は何故か叱りませんでした。

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中学部の威嚇と暴力はどうなったのか

 大昔の話です。

 知的障害養護学校(特別支援学校)から異動した話を書いてしまいましたが、まあまだ中にいた時のこともいろいろあります。

 中学部の威嚇と暴力についてはどうなったのか。

 若者達にはあれこれ言ってましたから、威嚇と暴力は無くなって来ました。例えばこんな具合。

 ある自閉症の生徒が若者Bのメガネを取った。若者Bは、一瞬手を上げようとしたが、私に気づいてはっとして手を下ろした。

 ・・・って、全然根本的な解決になってない(^_^;)

 まあ、この時は笑いながら近づいて

「あんなあ。困った時は、困った、って伝えてええねんで」

と若者Bに伝えましたけど。

 でも確かに若者達は威嚇と暴力を使わなくなっていったようです。

 頻繁に暴力を使う先生はどうだったか。私よりかなり年上だったので、私からは言いにくかったです。

 学年も違っていたのですが、たまたま私がいた時に給食のお盆で自閉症の生徒の頭を叩こうとしました。私はおどけた風を装って「おっとっと」と言いながらそのお盆に手をそえ叩けないようにしました。するとお盆から手を離し、素手でパコンと叩いてはりましたね。

 私にできたことはそれくらいです。

 後年、以前書いた「私と同じように変わった先生」が中学部でリーダーの立場になりました。「あの頻繁に暴力を使う先生、どうしてる?」と聞いたら「大丈夫。私の目の届かない所に行きそうになったら、○○
先生!(ニコニコ)こっちおいでよお!(ニコニコ)って具合に目の届く範囲にいてもらってるから暴力振るわないよ」と言ってました。

 現実的な解やなあ、と思いました。

 不安になられてはいけないので書いておくと、もう退職されたと思います。

posted by kingstone at 21:27| Comment(0) | 自閉症・発達障害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

コカ・コーラ そのままでいいのさ



「変わる」「変える」「そのままでいい」

 古い応用行動分析学の初心者向け入門書「子どもは変わる」東正著1985年4月版に、こんなフレーズがあります。

 わたしたちは、子どもの行動の変容をとりあげるとき、それだけに視点を限定する傾向があります。こどもがよくなった、そのことだけに目をうばわれてしまいます。実はもっとたいせつなことがあります。

 子どもが変われば、お母さんが変わります。
 子どもが変われば、先生も変わります。そして、
 お母さんが変われば、子どもが変わります。
 先生が変われば、子どもも変わります。 

 変化するのは子どもだけではありません。お母さんも、先生も、子どもとおたがいに関係し合いながら変化していくのです。


 やっぱり「古い」から「お母さん」だけが出てくるのかな。

 私としては「子どもが変われば」を一番に持って来るところに若干の異論はあります。でも大事な言葉だと思います。私はもと教師だから

 教師が変わる→子どもが変わる→親御さんが変わる

の順番だと思っています。ここは人によって変化するでしょう。

 でも「変わる」のをねらうというのもあるかもしれませんが、「そのままでいい」というのもほんま。で「そのままでいい」と思うといろんなことが「変わっていく」

 いきなりですが、コカ・コーラのCM。歌は上田正樹。「そのままでいいのさ」




 こんなのもありますね。


THE SERENITY PRAYER

O God, give us
serenity to accept what cannot be changed,
courage to change what should be changed,
and wisdom to distinguish the one from the other.

                 Reinhold Niebuhr



ニーバーの祈り

神よ、

変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

         ラインホールド・ニーバー(大木英夫 訳)

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そのままでいいのさ

 大昔に書いたものです。

 私はTEACCHの勉強をしていて、TEACCHプログラムを参考にして実践しようとする方から「自閉症のあなたは、そのままでいいのですよ。認知の障害があってもいいじゃないですか」というメッセージを受け取ります。(応用行動分析もそうかもしれない)

 これは、例えば「問題行動」があって、それをそのままでいい、ということではありません。ただ「問題行動」を起こすには「状況がわからない」「何をしていいかわからない」などの認知の障害に基づいたあれこれがあり、その認知の障害はそのままでいいんだ、ということですね。

 そして、その認知の障害を抱えたまま生きていくために、支援する物としてカードや具体物やそれらを使ったスケジュールがあったりするわけです。で、それによって「問題行動」が無くなったり減ったりする。

 しかし、やっていてここにひとつの逆説が生じる場合がありそうです。

 それは「そのままでいい」「認知の障害を抱えたままでいい」ということであれこれやっているうちに、例えば周りの状況の受け取りが良くなったり、いろいろな概念が身についたり、認知そのものも良くなったように見える場合が出てくる。なんか、そういうことがありそうだなあ、と思っています。

 でですね、これって・・・実は例えばロジャース派のカウンセリングなんかでも、同じ構造があるんじゃないかなあ。(ただし対象は自閉症者ではありません。今、ここで書いているのはあくまでも「自閉症的な認知の障害」の無い方の場合に限らせて頂きます)

 つまりね。ロジャース派のカウンセリングは「共感的理解」ということで「今そう感じているあなたはそのままでいいんですよ」というメッセージを相手に伝えるわけですね。(言葉だけとは限りません)

 でその中でクライエントは「成長」し「自立」していく。

 「そのままでいい」とやっているうちに「そのままでなくなる」わけです。

ここにおいて私にとってTEACCHも、応用行動分析も、ロジャース派のカウンセリングも同じものとなります。

 さて、ではロジャース派の人の前にクライエントとして自閉症児・者が現れたらどうなるでしょう。

 まずたいていの方は「視覚支援」の勉強などはされていません。
 環境の調整とかいう点について勉強されてる方も少ないとは思います。少なくとも10年程前に私が一生懸命勉強していた頃にはそういうことは話題になりませんでした。環境の調整などはせずにひたすら相手の言葉に耳を傾けるということが重視されていたように思います。(もちろん自閉症の方を対象にはしていない上での話です)

 そこに自閉症の方が現れる。きっとロジャース派の方は様々な違和感を感じられると思います。さて、でロジャース派の方が大事にしていることがあります。それは「今、ここ」の重視です。

 で自閉症の方と向かい合って「今、ここ」を大事にしようとすると、これはもう「視覚支援」とか「構造化」の勉強を始めないわけにはいかないのじゃないか、と思うのですね。

 あるいは、これは私が勉強していた頃もいろんなところに書かれていたのですが「自分よりももっと適切な人がいる、と思ったらそこを紹介する。決して無理に取り込まない」ということの重視もあります。

 つまり相手が自閉症の方だとわかり、自分よりももっと環境の調整など自閉症の方への援助に役立つ方がおられると判断したら迷わずそちらに紹介する、そういうことですね。

これは私の「願い」の部分が大きく、現実は決してそういうふうに
推移していないかもしれません。

追記
 少なくとも現在のスクールカウンセラーさんの活動の情報を集めてみると「診断」というか「自閉症」とか「アスペルガー症候群」とか「ADHD」とかいうふうに「見る」ことは多いようです。昔はそれすらも否定されることが多かったですから。

 ただ支援の仕方をご存知かどうかはわかりません。

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もうひとつの逆説

 大昔に書いたものです。
 同じようなことばかり書いてます。

 もうひとつ逆説が起こります。

 > 「そのままでいい」とやっているうちに「そのままでなくなる」わけです。

 でも「そのままでなくなる」ことをねらうと失敗する、という逆説(?)です。

 ほんと「そのままでいい」んですよね。
 で、そのままならそのままでいい。
 でもたまに「そのままでなくなる」それはそれでいい。
 どっちもいいんです。
posted by kingstone at 20:57| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする